かなり怪しい考察シリーズです。
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1考察シリーズの狙い
こんにちはRAIMEIです。最近怪しい投稿が増えていますが、人間30を超えると哲学・宗教等、人生の意義や世の中の仕組みを問う、難しい考察もしたくなるというものです。
この考察シリーズを書く狙いは、以前投稿した「人生=運ゲー?論」の続きや総括を書くにあたって、その根っこや枝葉の部分にあたる思想について自分の中で整理することです。
はじめに断っておきますが、僕は三流大学院の落ちこぼれだった男で、卒業してから初めて挫折感を味わい、勉強の重要性に気が付いたという、アホです。
なので、24歳ぐらいから数年間、働きながら、時にはニートをしながら、読んだ、本や体験を元にまとめるということになるので(もっとはっきり言うと30になってからの数か月間の勉強の成果が主体)、この考察は、知的な部分だけ見れば、大したことない内容だと思います。
しかし、身に着けた感性と知性を例え浅いと言われようとも、誰かに見てもらいたいという、極めてブログの趣旨に沿った理由からこれを公開します。
あと今回「自業自得」について書きますが、あくまで語句の意味を考察したいだけで、僕は仏教徒ではありません、宗教は嫌いです。
2仏教とは何か?その世界観
通常言われる自業自得は矛盾と傲慢のたまものだと思います。その根拠も記せます。その前提として大元の仏教思想について軽く触れます。以下は三大原理です
(宗派や大乗小乗等により色々あると思うのですが、ここでは詳しくは触れません、いつか参考文献載せておきます)。
①諸行無常
世の中のことは常に変化しており、一定の状態の物は存在しない。
(例 人体ですら日々細胞が入れ替わっている、星は常に流転している。実は多くの法則的な動きも長い目で見れば永遠の法則などはない。地球は自転するが、いつかは滅びる、太陽も滅びる)
②諸法無我
世の中の物は全て互いに関係しあっている。よって一つとして独立して存在する物など存在しない。
(例 人間の意識も他人をはじめとした多くの環境・世界に影響を受ける、そしてその影響を受けた自分がまた他人や世界に影響を与える、そもそも意識や言葉すら人間一人の中にあるわけではない、貴方がいなければ私もない、食べた物が自分を作り、自信の肉体もいつか食べられ、循環する)
③涅槃静寂
①と②を意識すれば、おのずと人間は一人で存在するわけでないことがわかる、善人も悪人さえも自分の仲間であり仏。また人間だけで生きているわけではないこともわかる、草も虫も川も空も自分の仲間であり仏。悪いことが起きても安易に悲観したり非難したりするのではなく、自分のこととして考え、良いことを実践していくことが、その意思が幸せなのである。
(例 路傍の石に仏を見出す精神 カラマーゾフの兄弟のミーチャ等)
大体の仏教の教えの概要は以下の通りです
「人生の不幸は老い等のさけえない苦しみや欲が原因である。しかし一つとして独立した確かなものはないのだから、自分さえも存在しない、それらに執着することは愚かな事である。この真理を知ればやすらかな気持ちで生きることが出来る」
上は現代のホームページを基に書いたので肯定的ですが、下は仏陀の大元の教えに近いので悲観的な感じもあります。宗教なので時代や地域により、振れ幅もあるのですが、根本原理は同じです。突っ込みどころはあるものの、神とかは介在せず、実際の世の中の法則から教義を考える哲学的な宗教だと言えます。
でもやっぱり怪しいよね。第一自分が独立した存在でないなんて、そんあほな、カルトの勧誘かな?そう思いますよね。でも今回の目的が「通常の自業自得の嘘を暴くこと」ですので、別に仏教の教えの正否自体は重要ではないと思います、論点はそれが正しく認識されているかです。
3嘘の自業自得の意味
通常いわれる「嘘の自業自得」の定義や使い方について書いてから、次項でそれに対する持論、ようするに多くの人が仏の教えを勘違いしているということを書きます。
言葉・論理の定義→問題点を指摘→持論を根拠を基に述べるという流れです。
3-1嘘の自業自得の使い方・定義・根本原理
慣習的・実際的な使い方
「株で財産を失ったのは自業自得だ」
「努力しなかったのだから底辺なのは自業自得だ」
「成功したのは努力のおかげだ」
「障碍をもって生まれたのは、前世の行いが悪いからだ」
「不慮の事故や犯罪でも被害者にも原因がある」
インチキ仏教の自業自得の定義
「良いことも、悪いことも、自分でやったこと自業が、自分に帰ってくる自得」
「前世の行いも、来世に受け継がれる」
「すべてのものに因縁がある、因は直接的原因、縁は間接的原因、不慮の事故の場合、因の部分では自分は悪くないが、縁を作ってしまったということで自分に責任がある」
元となる根本原理
「因縁・縁起 因果論 原因が初めにあり、その結果がある その連鎖、ただし仏教では第一原因(神)は考えない」
3-2嘘自業自得問答
Q1例えば、詐欺にあった人がいたとして、それはその人のせいでしょうか?
A1仏教ではこう考えます。
「確かに犯罪者が悪いが、そもそも自分が旨い話に欲を出さなければ、詐欺に引っかかることはなかった、つまり悪者との縁を自分で作ってしまったのです」
Q2ある日突然、横断歩道をわたっていただけなのに、居眠り運転の車に引かれて障碍をおった人は自分のせいでそうなったのでしょうか?40%もいる世襲議員は、全部自分の努力で政治家になったのでしょうか?
A2仏教ではこう考えます。
「それは前世の行いのせいです。もしくは、間接的原因である縁を作ってしまった自分の落ち度です。また障碍者になったとしても不幸とは限りません、金持ちが幸福とは限りません、自分に執着することが不幸です、つまり心のありようで幸福はきまります、悟ってください」
4嘘の自業自得の問題点
4-1嘘の自業自得の矛盾
諸法無我と諸行無常により、独立して完全な物を認めないのに、自分という完全な独立物を想定している自業自得論は矛盾しています。どちらが正しいのでしょうか?しかし自業自得のほうが正しいとすれば、仏教自体インチキと言うことになります。
また因縁があるとして、因は直接的な自己が起こした行動による原因だからいいとして、縁のほうは、自分では意図できません。平和に道路を歩いていただけで引かれた人は、それが悪い縁をつくることなんてしりません。結果そうなったから貴方に原因がある、貴方が悪い、と言われても、意図していない不幸に責任などとれません。
4-2前世・来世・あの世等を証明できない
言うまでもありません。だって死んだ人は現世で文章は書けないし、生きている誰かに教える事も出来ません。臨死体験や降霊術等であの世を見た人、前世の記憶をもった人等の証言はありますが、第三者に観測できない時点で、証明はできません。ですので、前世を根拠にしている自業自得論はやはり嘘か欠陥論理です。
と言うより、インドで生まれた時点での仏教にはあの世なんて書いてあったのでしょうか?この点は僕には解りません。まあヒンドゥー教の輪廻転生の教えから抜け出ようというのが、仏教のはじまりだと思うので、前世とか来世とかは前提としてあったと思うのですが、果たして仏陀がそれを本気で信じていたかどうかは、わかりません。
仏教は恵まれない人も、心しだいで救われるという教えだと思うので、前世を否定しても、その思想時代は輝きを失わないと思います。
例えば、日本でも念仏を唱えるだけで救われるという、元の原理とは似ても似つかない教えがありますが、これだって、学のない民衆を救いたいという思いゆえではないでしょいうか? しかしそれを言葉通り受け取れば、教義で人を縛る事にもなります。
聖書の中でキリストはたとえ話でしか、弟子に教えなかったと書いてありますが、その意味を知るべきです。信仰で山が動くというのは、信じる力、つまり強い感情が山をも動かすようなすごい知性と行動力を呼び起こすという意味です。
ただ仏教自体の問題点もあると思うので、それは次回以降に書いていきます。
5仏教の目的と嘘の自業自得論の乖離
この項は、3-2のQ&Aにたいする反論です。理屈でここが間違っていると指摘できても、いまいち溜飲が下りないです。仏教は人の心を救うためにあるはずなのに、逆に間違った教義で人を苦しめるなんて許せませんよ(別に宗教自体に恨みなんてないけどね)。
AQ1について
詐欺師を見抜けなかったという点では、多少落ち度はあるようにみえるかもしれない。しかしお人好しで善良な人や、体や精神が弱っている人ほど騙されやすく、詐欺師はそういう人をターゲットにして、自身もそういう人を装い騙すものです。
オレオレ詐欺について、慈悲の心を持った仏様は、息子心配のあまりお金を渡してしまったおばあちゃんに問題があるなどと言うでしょうか?それが仏教の精神ですか?少なくともキリストはおばあちゃんをせめたりしませんね。
弱った人の中には宗教に救いを求める人も多い。しかし、これではだまされた人を責める教えになってしまっている。そしてだまされた人も悪いと言う世の中では、詐欺など減るはずもないと思います。本末転倒ではないですか?
AQ2について
「障害や貧乏や突然の事故、そういう明らかな不慮の不幸をこうむっても、それは前世の問題であり、又は自分の行動が縁を呼び寄せたと考え、それを心の執着をすてて気にしないようにするのが、仏教なのです。
犯罪を受けても忘れましょう。相手を憎む心が不幸のもとです。生まれながらの障碍がもし製薬会社のせいでも、米軍の爆撃のせいでも、だれも憎んではなりません、仏の道を学ぶためだと解釈しましょう。」
アホですか?
重度知的障害の人は悟れるの?
被害者が憎しみを抱くのが悪いことなの?
イラクの人はアメリカ人に握手を求めればいいの?
ああだから日本人は東京下町に焼夷弾をばら撒いて意図的に民間人を大量虐殺したアメリカに服従しているんだね。
僕には弱い立場の人に対して、お前が悟らないのが悪い。そういっているようにしか聞こえない。被害者にお前が悪いだなんて、まともな人なら言えるとは思えない。
(が前提としている知識が違うのならそれは良心の問題ではないかもしれない、キリスト教に入らないと地獄に落ちると思っている信者からすれば、目の前の命を救うよりも改宗を優先するのは道理かね)。
そもそも執着は完全には捨てられません、なぜなら腹が減るから、寒いから、眠いから、良い女や男がいるから。川や山が美しいから、相手が憎くて仕方ないから。
「いやだからそれを悟って捨てるのが、仏教でしょ!なにいってんのアホ!」 と言われそうですが。
ここから先は仏教そのものの問題になるので、次回以降に書きますが、要するに感情という人間にとって欠くことのできない心の働きを、教義で否定しても仕方ないんです。
少なくともなくすことはできない。それを高次の感情に導くのが仏教の目的では?
教え自体の問題点ではなく、それを教える人の意図も問題ではない、困っている人に「正論」を押し付けても、無意味だという態度の問題です。
もし無思慮に相手の苦しみを理解しないで、貴方にも原因があるなどといったら、その人は悟りに導かれるどころか、絶望するかもしれませんよ。それが仏教の目的ですか?
嘘の自業自得は、矛盾しているだけでなく、乱用すると人の心を傷つける可能性があるということです。
6本当の自業自得「自=世界」
結論から言うと、自業自得の自とは、自分を含めたこの世の全てのことです。
それなら、他者が起こした行動で自分が傷つく説明が付きます。
自分=他人=世界という認識です。
「はあ?君は長々と書いた割に、意味わからん、結局詐欺師かよ」
そう言いたい気持ちはわかります。しかし仏教ではこの世の全てのもの、大宇宙は仏の慈悲の表れであると考えます。それじゃあよくわからないので、生命の花という模様を用いて説明します。
縁起の原理を示す生命の花
この生命の花は、仏教やキリスト教に共通に用いられるモチーフです。
以下のような話があります。
仏教の帝釈天(天帝)の宮殿の壁には、上の様な円が重なって存在する模様が描かれており、その点の一つ一つには金剛石(ダイヤモンド)がはまっている。そしてそのうち一つに光が当たると、次々にその光は反射して、様々に輝きだす。
要するにダイヤの一つ一つがお互いに影響し合っていて、単体で独立したものも、同じ光り方も存在しないという諸行無常と諸法無我の原理を表しています。
仏教では完全に独立した存在など、はじめから存在しないのです。
ではなぜ自を定義できるのか?
それは、「自分」と言うものが、この世界の現れの一つ、つまり全体の一部であり、さらには、全体そのものだと考えるからです。すべてはつながって一なるものなのです、ゆえに、虫も川も嫌いなあの人も、仲間と言うよりは、じつは全部自分なのです。と考えるそうです。
でもこれ2の三大原理で説明しているので、なんかイメージをもとに、解釈を付け加えただけですね。
ところで、僕が好きな遊戯王の千年パズルの謎は「見えるけど見えないもの」です。パズルはピースが一つでも欠ければ完成しません。世界も同じですが、世界は変化するという点で異なります。
「この世に不必要なやつなどいない」これは遊戯王5Dsの主人公不動遊星の信条です。漫画やアニメにも日本人の思想が根底に流れているのです。
小説カラマーゾフの兄弟のミーチャははじめ乱暴で親父を殴りつけて、金を散在するような放蕩男でしたが、無実の罪で逮捕されてから
「全世界の人の不幸は自分にも罪がある」と考えるようになり、刑に服してもいいし、世界中の困っている人を助けるようなことをしようとも決心します。
この原理から求められる自業自得の正しい意味は、「我々の行動が我々の世界を作る」という至極まっとうな意味であり、だからこそ涅槃静寂に到達して、皆が良く暮らせるように実践していきましょう、ということだと僕は思います。
7終わりに-傷ついた人へ-
僕は結局のところ、上の解釈が正しいと思っています。宗教は好きではないけれど、今は知識がなさすぎて、より高いレベルの認識を持てないというのが正直なところです。でも「みんなに合わせないお前が悪い」といわれて納得して、理不尽なことを耐えていた時より、自由になれたと思います。
だからこれを前提に、傷ついている人にエールを送ります。正直に言うと僕は傷ついた人間でもあるし、傷つけた人間でもあるからです。
貴方が何かの原因で傷ついたと思っても、それは今まで感じていた「自分」のせいではありません。この世界に生きる全ての存在ゆえの因果であり、これはだれにどう作用するかはわからないものなのです。だから「貴方」だけが悩んだり「自分」を責めたりする理由はありません。これを書いている僕も悪かったのです。
もし人と違っていても、自分を責めたり、駄目だなんて思わないでください。ルールを破ったとか、人間関係がヘタだとか、「常識的に考えてみんなの和を守らないお前が悪いとか」、発達障害だとか、学習障害だとか、全部個人のせいにして、それを欠点だという、そういう低レベルな因果論・二元論に皆が騙されているのです。本当は皆がつながっているのです。天才も凡才も障碍者も、ただの相対てきな位置の違いでしかありません。尊い貴方が、「本当のバカ」に騙されることだってあるのです。貴方には価値があります。なぜなら僕にも同じ価値があるからです。
傷つけてしまい、傷ついた人もそれは同じです。貴方が加害者になってしまったのは「自分」だけの良心が足りなかったからではありません。世界の我々の良心が足りなかったのです。これを書いている僕も悪かったのです。
どうか自分の優しい感情を信じてください、人を傷つける知性優先の人間が強くて、感情的で優しい人間が弱いなどと、だまされているのです。人を支配する人間はそういう騙しの手口を用いることは、今回僕が一つ例証しました。「優しさこそは強さ」これも遊戯王の言葉ですが、弱い人間の願望ではありません。心に愛がなければ人は不幸なのです。そういう人間は外面は強そうでも自分がないので弱い。
貴方には価値があります。なぜなら僕にも同じ価値があるからです。
今後書いていきますが、高度な感情は高度な知恵を、高度な知恵は高度な感情を生み出すのです。仏教は自然から原理を抽出している点で、自然科学と同根の方法論をもった思想なのです。でもしつこいけれど、僕は仏教徒でもないし、勧誘でもありません。むしろ現実に僧侶にあったらがっかりするかもしれません。まずは安心できる場所を探すことが重要だと思います。
そしてそのために、個人で出来ることとして(厳密な意味で個人だけで出来ること等ないけれど)、感性(体験)×知性(読書)=理性(認識)を磨くこともその一つだと、そう思います。
これはオカルトではなくて、現に封建主義から民主主義()に世の中が変わったではありませんか、一応人類の知性と感情のレベルは高まっているはずです。
今回は以上です。
結構書きたいことを書いたので、次はいつになるかはわかりませんし、案外3回ぐらいで終わるかもしれません。見ていただいてありがとうございます。
ところで僕がこれを書き上げた瞬間おもったことは「くだらねえ、だるいな、会社のみんな死なないかな」でした。上のは概念で語っているだけです。自分の中にどす黒い感情がどのくらいあるのかは、正直自分でもわかりかねます。人間的に高い認識に辿り着くには、どの様な体験や知識を取得すればいいのだろうか?